●母を抱えて三千里?
当然母は大学なんか来たことはなかった訳ですが、生きていたら「えらい田舎にあるんだねえ」と言ったかもしれませんね。ちなみに、私の父もこの大学を出てるんですが、当時の校舎は都の中心部(神田駿河台)にあって、父は戦後の混乱期に働きながら夜学に通ったクチ。子どもの頃にそうした話をさんざん聞かされて、大学というのは自分のカネで行くトコロなのだと幼い頭で思い込んだものでした。
それで私も、2年次からの学費は自分でアルバイトして出しましたし、父が亡くなってからは奨学金も借りられて仕送りもいらなくなりました。それが当たり前のことだし、同級生の多くは働いてるんだからと思っていたものだったので、以前の民主党の代表選挙の際に、前原議員が早く父を亡くし奨学金を借りて大学に行ったことがあたかも苦労話のように宣伝されたときには違和感を感じました。まあ階層が違うのかな、と。もっとも親の側からすれば、目先の金よりもマジメに勉強してキチンと稼げるようになってくれ、と思ってたんでしょうけどね。
さて、写真の中央に黒い空間が見えますが、これは高さ約10メートルのガラス張りの窓になっている空間。その窓ガラスに、文字を大きく書いた模造紙を一枚一枚はっていって巨大な看板の役割をさせる。この通称「マドカン」をはるために、丸めた模造紙を背中にさし、H鋼の柱にしがみついて8メートルくらいの高さまで、命綱無しでよじ登ったものでした。一番高いトコロで10メートルくらいあったので、運が悪ければ死も、と毎度内心ビビリながら作業でした。
大学から公認されていない自主運営の大学祭(60年代末の学園闘争の影響で正式な学園祭実行委員会がなかった)のために、そんなことまでやってたんですが、少しは勉強してるかと思っていた息子がそんなことしてる姿を見たら、どう思ったかなあなどと考えながら、陽光うららかな大学内を遺骨をもって歩いたのでした。

コメント
そういえば、1970年代後半だったか80年代初頭だったか、大学の再編で都心の大学が都下へという動きがありました。当時、朝日ジャーナルでも特集があり、中央大学がトップをかざり、きれいな校舎であったことを思い出しました。とまあ、あまり思い出したくない時代の思い出でした・・・・ハハ
Posted by: mic | 2006年04月29日 15:48
そうですねえ。国立では筑波(東京教育大)、私立では中央がモデルケースと言われたものでした。そのマイナス面を見た他大学では、一部移転(明治、法政、青山など)という路線にしたそうですね。もっとも最近は、郊外の土地を売っぱらって都心に高層ビルを建てるようになってきたようですが(共立女子大など)、これも容積率の制限を大幅にゆるめた「規制緩和」のタマモノ。
Posted by: eichan | 2006年05月01日 11:41